クニの形成

【米作り、始まる】弥生時代 ~前編~ の通り、稲作が始まったことで『土地』っていう概念が生まれて、人々は集落を形成するようになった。
一旦集落が形成され始めると、勢いは止まらない。
欲望のためか、自衛のためか、という議論は置いておいて、集落は徐々に統合されて、もっと大きくて強い集落になっていく。
その手段も、平和的な話し合いによるものもあれば、当然殺し合いの戦争の結果でまとまった場合もある。
そうやって、大きく強い集落はもっともっと周りの集落を飲み込み、やがて『クニ』と呼ばれる共同体になる。
クニもまた、周りのクニと手を組んだり、まとまったり、離れたり、を繰り返しながら、より強大なクニへと成長していく。
後でやるけど、『魏志倭人伝』にある「倭国大乱」っていうのは、この色んなクニ同士が戦争を起こしまくって無茶苦茶になっている様子を表している。
これまた後で出てくる『邪馬台国』も、そのクニの一つってわけ。
クニのトップは「王」。
王がいっぱいいたんやね。
『漢書』地理志
『漢書』地理志は、日本に関する最も古い情報が書かれている文献。
有名な一説に、
「夫れ楽浪海中に倭人有り」
っていうのがある。
すんごいざっくり訳すと、「楽浪郡らへんの海の中に倭人の国があるよ~」って感じ。
楽浪郡っていうのは、今でいうところの平壌。
そう、朝鮮民主主義人民共和国、いわゆる北朝鮮の首都の平壌。
まあ朝鮮半島の近くに倭人の国があるらしいよ~ってことで、ざっくり位置関係は合っている。

『漢書』っていうのは、大陸の王朝『前漢』の歴史書ってこと。
前漢は、あの『キングダム』の秦王朝を倒してできた王朝ね。
始皇帝の王朝をぶっ倒して作った王朝やから、めっちゃ強い。
”漢字”とか”漢方”とか、中国のことを表す代名詞になっているくらい、中国4000年の歴史の中で、強烈なインパクトを残した王朝。
そんなめっちゃ強い王朝やから、朝鮮半島まで勢力が伸びていた。
前漢の”武帝”っていう皇帝が、朝鮮半島に置いた地方の名前が楽浪郡。
つまり、場所は朝鮮半島やけど、前漢っていう国の一部ってことね。
ちなみに、『○○書』○○志とか、『○○志』○○伝とか、中国の王朝の歴史書の名前が日本史ではよく出てくるけど、今の王朝の歴史を今書くことってなかなか難しいよね。
今起きてることを文献に整理して残すの大変やもん。
やから、だいたい次の王朝で前の王朝の歴史書が書かれる。
あの頃はこんなことあったな~って。
ってなわけで、
例えば『漢書』地理志は次の王朝の後漢で、
あとで出てくる『後漢書』東夷伝は次の王朝の魏で、
『魏志』倭人伝は次の王朝の晋の時代にそれぞれ書かれている。
初めて文献に日本が出てきた!って言っても、中国の王朝から見向きもされないレベルの文明やったし、海が隔ててるのもあって、記載はこの程度。
あっこにあるらしいよ~って軽いノリ。
『後漢書』東夷伝
次に日本の記載がある文献は、『後漢書』東夷伝。
『後漢』って王朝の歴史の中で、“東夷”、つまり東の野蛮人についてのお話ですよ~ってコーナー。
まあ文化レベルが雲泥の差やからしかたない。
奴国
『後漢書』東夷伝にまず書かれているのは、奴国のについて。
この奴国っていうのは、上で説明したクニの一つで、今の博多付近にあったとされる。

その奴国の王が、後漢の皇帝に使者を送った。
おれたち、ここら辺を治めてまっせ~って感じかな。
中国の王朝は昔から、使者を送ってきた周辺の国に、
「おお~!お前ら、よく使者を送ってきたな!よっしゃ、国を治めることを認めたろ。」
って(偉そうに)許可を下してた。(何様)
これを歴史用語で、『冊封体制』っていう。
まあ圧倒的大国やしね。
文化レベルも圧倒的やしね。
小さな国が生き残ろうと思ったら…
長いものには巻かれろ…ってね。
でっかい王朝の後ろ盾が必要なわけ。
んでもって、当時の日本列島は100ヶ国以上のクニに分かれて戦争してたから、みんな大国の後ろ盾は喉から手が出るほど欲しい。
後漢の“光武帝”に使者を送った奴国の王は、その見返りにハンコをもらう。
えっ…使者送ったお返しがハンコかよ…って思うかもしれんけど、そのハンコにはかの有名な、
『漢委奴国王』(かんのわのなのこくおう)
って文字が掘られてる。
これはざっくり訳すと、
「奴国王さん。あんたは、『後漢』っていうおれ達めちゃツヨ王朝の、『倭』って地方の、『奴国』ってクニの王だよ」って証。
倭が後漢の一部認定されてるわけやけど、この印鑑の持つ力は絶大やった。はず。
もし奴国に手を出そうもんなら、親分の後漢は黙ってないよ!っていう、
たとえて言うなら、水戸黄門の「静まれ、静まれ、この紋所が目に入らぬか!」ってやつ。

これがあるおかげで、他のクニは相当な覚悟、つまり後漢を相手に戦うくらいの覚悟がないと手が出せないよってことになる。
実際はどこまで効果があったかは知らんけど。
ってな感じで、徐々に大陸との政治的な関りが生まれてくる、そんな時代。
倭国王 帥升
奴国王が後漢に使者を送った50年後、他のクニの王のことに関しても記載されている。
その名は帥升。
名前かどうかわからんらしいけど。
この帥升は、後漢の皇帝に「生口」を160人献上したらしい。
「生口」ってのは奴隷のこと。
奴隷をいっぱい献上するので、会ってくれませんかね~?っていうお願いをした。
記載はそれだけ。
扱いが…雑。
このことからもわかる通り、圧倒的大国である中国の王朝には、どの王もへりくだって、ぺこぺこしてた。
まあ吹けば飛ぶような小さな島の、そのまた小さなクニやからね。
仕方ない。
『魏志』倭人伝
弥生時代に関する最後の記述がある中国の歴史書。
正式名称は、
『三国志』魏書東夷伝倭人条。
………
こんなん憶えんでいいからね。
要は、みんな大好き三国志の魏王朝の歴史書、『魏志』。
その中の東夷伝(東の野蛮人)の中の倭人のお話。
倭国大乱
『魏志』倭人伝には、倭国大乱っていう記載がある。
倭国、つまり日本列島はクニ同士が戦争しまくって大きく乱れているよってこと。
『漢書』地理志にも、日本列島は百余国、つまり100以上の国に分かれてるよって記載があるから、めちゃくちゃたくさんのクニが入り乱れてたんやね。
しかも当時は西日本が主な舞台。
日本列島の西半分にそれだけ多くのクニが入り乱れてたら、さぞかし多くの血が流れたやろうね。
そんな中、あるクニが頭角を現した。
『邪馬台国』だ。
邪馬台国
日本人で知らない人はいないであろう、弥生時代を代表するクニ、邪馬台国。
このクニの位置に関しては、いまだに九州説と近畿説で争ってるけど、生粋の京都人としては、やっぱり近畿にあってほしいな~(願望)
奈良県にある纏向(まきむく)遺跡っていうのが、最近やと邪馬台国の遺跡やないかって有力視されてるみたい。
日本の歴史は近畿から始まるんや。うん。
卑弥呼
そんな邪馬台国を強大なクニにまとめていったのが、女王卑弥呼。

『魏志』倭人伝には、「鬼道を事とし能く衆を惑はす」っていう記載がある。
つまり、呪術とか魔術とか、そういう不思議な力を使って民衆をまとめていったってことやね。
どうでもいいけど、呪術って聞くと、真っ先にドラマ『トリック』を思い出す。
山田奈緒子みたいな感じで(?)、マジックでも披露して国を治めてたんかな…?
そんな卑弥呼は、奴国王や帥升と同じく大陸の王朝と交渉するために使者を送った。
当時の王朝は魏。
『魏志』倭人伝やから当然やね。
そうして卑弥呼は魏の皇帝から、『親魏倭王』っていう称号と、これまた金印と銅鏡をもらった。
”魏に親しい倭王”ってことは、待遇は今までの王よりも上やったんかな…?
でも、「鬼道を事とした」卑弥呼でさえも死から逃れることはできず、狗奴国っていうライバル国との戦争中に亡くなる。
壹與
卑弥呼の跡を継いだのは、壹與っていう弱冠13歳の女の子。
読み方は、歴史書によって「いよ」だの「とよ」だの分かれてるから、ここではどっちで読んでくれても構わない。
壹與は卑弥呼の一族の中から選ばれたらしい。
13歳の女の子に国が治められるのかよ!って思うかもしれんけど、これが意外と治まった。
卑弥呼のカリスマ性がすごかった反動なのかはわからんけど、卑弥呼と壹與の間に男性の王が即位するんやけど、うまく治められないまま失脚する。
血が繋がってることと、卑弥呼と同じ呪術的なカリスマ性が受けたのかもしれない。
魏の次の王朝である晋にも使者を送ったり、ちゃんと国が治まってたみたい。
まとめ
弥生時代、稲作がもたらされて、”土地”が生まれて、集落ができて、クニができて、ついに邪馬台国っていう強大な国が誕生した。
邪馬台国は今のところ近畿説が有力やから、それが基になって日本の王朝の始まり、ヤマト政権に繋がったのかもしれない。(願望)
マンモスを追ってたあの頃から、ずいぶん様変わりして、”政治”が行われまでになった。
卑弥呼や壹與については、筆者の歴史ロマン妄想が止まらなくなるので、それはまた別記事にて。
次は古墳時代。
日本にもいよいよ王朝が誕生する時代だ。
政治組織とかややこしいことが増えてくるな…